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新着情報 一覧

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2022年04月27日(水)

医療現場はもちろん、食品加工の現場でも今や薄手のゴム手袋はなくてはならない商品です。

機器の消毒は既に手術では当然行為になってました。しかし最後の難関として残ったのが医療者の手指の消毒でした。当時の強力な消毒薬に世tる厳重な手洗いでも完全に無菌化することはできません。いくら洗っても汗腺や毛穴にいる細菌は完全に無菌化できませんからね。そして厳重な手洗いによって手が障害を受けるのは当然のことです。

1889年、場所はボルチモアのジョンズ・ホプキンス病院のオペ室。看護師のキャロライン・ハンプトンは手洗いによる手荒れのひどさに悩んでいた。肌が赤剥けになって仕事ができないくらいでした。そしてついに退職を申し出たのです。

当時外科医長だったウィリアム・ハルステッドは彼女に目をつけていました。美しいだけではなく、有能でてきぱきと仕事をこなす彼女に仕事を辞められると、勤務する楽しみの一つが奪われるようでした。(この部分は勝手なヴィネの想像)

これからが彼が普通の男と違うところです。凡人だと、単にやめていく彼女に「俺と暮らさないか」程度のことしか言えません。ところが彼はグッドイヤー・ゴム会社の友人に相談して薄手のゴム手袋を作るように依頼したのです。そして出来上がった手袋を彼女にプレゼントしたのです。

彼のこの行為が彼女の心を揺さぶらないわけはないです。さらに彼はのちに教授に上り詰め、乳がんの術式で近年までスタンダードだったハルステッドの手術を生み出したり、伝達麻酔の開発、レジデント制の確立など多くの功績を残したのです。

ヴィネが外科医だったころ大胸筋まで取っちゃうハルステッド法は標準術式でしたが、今では縮小術が主流で、ハルステッドが実施される機会は激減しました。ヴィネは当時「乳がんがそんなに大きくないのにどうして大胸筋まで取っちゃうのか」とかなりの抵抗を持ったことを覚えています。

 

コッホが病原微生物の発見に貢献したという話は知らなくても、彼の名前は多くの人が知っています。北里柴三郎もコッホのもとで研究をしました。

コッホは若いころは田舎町の開業医だったのですが、妻からプレゼントされた顕微鏡で実験をして炭疽病の病原体を発見しました。妻が顕微鏡を贈るということは、開業医ながらもとても研究熱心だったことがうかがえますねえ。

ところが当時の医学会は微生物の存在を認めていませんでした。そこでまたあのクソ医者ウィルヒョウが邪魔します。医学界に君臨していた彼は自分の地位が揺らぐことを危惧したのか、「たわけ田舎医者を叩き出せ」と言ったそうです。

しかし事実は誰もが認める確信的なものとなり、広く知られるようになり、パスツールからも高く評価されました。当然彼がいつまでも田舎医者でいるわけがありません。48歳で王立感染病研究所所長に迎え入れられました。この時ウィルヒョウは70歳。己の過去を反省したのでしょうか?

コッホの業績は外科医療にも多大な貢献をしました。術後感染が化膿菌によるものと証明されてからは無菌手術へと発展していったのです。

ゼンメルワイス(1818-65)はハンガリーの医師です。

百数十年前まではすべての傷は化膿するのが当たり前で、それは傷が治るための必須の過程と考えられていたのです。

28歳のゼンメルワイスはウィーン総合病院第一産科の助手の職に就いていた。彼の職場は大学医学部直属の最高医療レベル施設(のはず)でした。しかし産褥熱のまん延がはなはだしく、産婦の死亡率は10%にも及びました。つまり10人子供産んだら母親はなくなるのです。
ところが同じ病院の助産婦学校所属の第二産科では死者は多くても1%に過ぎませんでした。

ゼンメルワイスこの事実に驚愕しました。(ヴィネからすると彼以外がこの事実を問題にしなかったのがとても疑問です。それが権威構造社会の弊害なのだと痛感します。)彼は原因究明のため産婦を解剖しました。そして最終的に病毒が傷口から侵入して化膿するという結論に至ったのです。そして塩素水で消毒することを徹底して、死亡率が3%にまで改善しました。

しかし若かった彼がほかの医者に消毒を強制したことは先輩たちは反感を買いました。しかも当時は「すべての疫病は体液のアンバランスで起きる」という医学常識があったため、彼の病毒原因説は権威に対するあからさまな挑戦でもあったので、彼は最終的に病院から追放されてしまいました。

母国ハンガリーに戻ったゼンメルワイスはブダペスト大学の産科の教授になり、消毒の重要性を説いた本を出版しました。ところがここでもまた医学の権威が邪魔をします。ベルリン大学のウィルヒョウ(1821-1902)はチョー有名な病理学者です。ウィルヒョウのリンパ節を知らない医者は誰もいないくらい有名です。そのウィルヒョウがなどから彼は全面的に否定されました。

彼は次第に精神を病みウィーンの精神病院で47歳の短い生涯を閉じたのです。

微生物の存在は1672年にすでに報告されていました、1840年には膿汁中にも無数の微生物が存在することが報告されています。なのに化膿が微生物によるものと結びつけられるにはまだ時間がかかったのです。

まずはパスツール(1822‐1895)が生命が自然発生することはないことを証明しました。そして食品の腐敗は微生物によるものだと結論付けました。リスター(1827‐1912)はパスツールの研究からヒントを得てフェノールによって化膿や壊疽を防ぐことに成功しました(1866)。そして創傷の化膿が微生物のよるものと結論付けました。リスターの功績は高く評価され男爵にもなりました。

リスターはゼンメルワイスの存在を知りませんでした。イギリスの開業医デューカがゼンメルワイスの伝記を著したことで、リスターは彼の存在を知り、ゼンメルワイスこそ真の消毒法の創始者と主張したのです。

ゼンメルワイスもウィルヒョウもパスツールもほぼ同じ世代です。リスターだけがこの3人より少し若いです。ゼンメルワイスは不遇の医師ですねえ。パスツールがゼンメルワイスの存在を知っていれば、そしてリスターがもう少し早く実験に手を付けていれば、と悔やまれます。今の時代は情報がすぐさま世界中に伝わりますからこの問題は解決できるでしょう。
しかしウィルヒョウのような権威の頂点にいる人間が、斬新でこれまでの常識を覆すような考えに触れたときに、それを素直に受け入れるかと言ったら、現代でもそれは難しいと言わざるを得ないでしょう。

ヴィネの「NHKは国民を救う」も闇に埋もれる運命なのかもしれません。

キズの治療は、まずきれいに洗って軟膏をつけてガーゼや包帯で覆う。血管からの止血は糸で結紮する。

今では当たり前のこれらの処置は、ある一人の床屋医者の発案で生まれたのです。彼の名はアンブロワーズ・パレ。

床屋医者とは、正規の医学教育を受けていない医者で、正規の医学教育を受けた医者の指示のもと、直接患者に触れて処置をする医者のことを指します。中世のヨーロッパでは医者は権威の塊で、ブラックジャックのようなローブを着て威厳を保ち、薬の調合や処置を支持するだけでした。血や膿などに触れる外科的処置は「卑しい手仕事」として床屋医者にゆだねられていたのです。

そして当時のキズの治療は信じられないほど残酷なものでした。例えば大砲の砲弾による挫滅創は、「火薬の毒」による作用と考え、創面に煮立った油を注ぐとか灼熱した焼きごてを当てるなど、熱を加えることでした。当然患者は発熱し痛みに苦しみました。それを床屋医者は、正規の医学教育を受けた医者の指示のもと固く守り続けたのでした。

トリノでの戦場でパレは、多くの負傷兵の処置に追われていました。そして「火薬の毒」を消すための油が底をついてしまいました。仕方なく彼は卵黄を食用油などで練ってそれを傷口に塗ったのです。ところが翌日になると焼きゴテや煮立てた油で治療した患者に比べて、彼が即席治療をした患者たちの方がはるかに良い状態で痛みも軽かったのでした。

それから彼は現代のキズの処置につながる方法を確立していったのです。彼の卓越した技術と愛護的処置方は広まり、王侯貴族の間でも有名になり、フランス国王の侍医になったのです。当然権威ある医師たちの猛反発を食らいましたが、その後彼は4代にわたって国王からの信頼に応え続けました。

パレはとても謙虚な人間で、自ら体験した知識や技術を惜しみなく伝えました。そして彼の著書は平易なフランス語で書かれていて、多くの床屋医者にも理解できるものでした。当時の医学書は権威を保つためにラテン語で書かれていて、高級な専門書はラテン語で書かれるべきだと信じていた教授陣は「権威を貶める所業だ」と猛烈に非難し出版差し止めの訴訟まで起こしたのです。しかし医療現場でンお有用性は疑う余地がなかったので、彼の本は飛ぶように売れたのでした。彼の書籍は各国語に翻訳され、日本の蘭方医にも伝えられることになったのです。

以上は松本歯科大名誉・特任教授の笠原浩氏のある雑誌への寄稿を抜粋しました。

現在の外科処置の基本は床屋医師のパレの功績によるものですが、パレの名はほとんど知られていません。おそらく今の医者のほぼ全員が、外科処置は長い医学の歴史の中で医者たちがいろんな苦労をして積み上げてきた技術なんだ程度にしか理解していないと思います。正規の医学教育を受けた医師の敗北の歴史など絶対に教えていないです。
脚気の原因についても日本の医学の権威は栄養原因説を否定し続け、多くの戦士を脚気死に追いやりました。時代は変わっても権威主義の医学会は過去の失敗から何も学べませんでした。

しかしこれは医学に限りません。特に威厳を誇りたい職種に共通して見られる現象です。政治家がその典型です。大統領や首相など大物の政治家に限らず、市議会議員程度でも決して自分の過ちを認めません。

もし身近にこんな人間がいたら、絶対に友達になりたくないと思うのですが、なぜかこの手の人間は死滅しません。それどころか選挙では指導力があると評価されてトップに上り詰めます。プーチン、トランプ、習近平、マルコス、多くの指導者がこの手の人間です。他国のことだと安心しないでくださいね。

森鴎外(本名森林太郎)が医者だったことはよく知られていますが、その詳細はあまり知られていないでしょう。

彼が医者になったのはなんと18歳の若さです。11歳で2歳サバ読んで今の東大医学部に入学していたというのですから、当時の教育システムがまだまだ未熟だったのですね。

松本歯科大学名誉・特任教授の笠原浩先生の著述から、森に関する興味あるビタミンB1に関する文章を見つけましたのでここに記載します。

昔脚気は「江戸患い」と恐れられていました。当時地方ではまだ玄米食だったが、江戸では白米を食べるのが主流となり、多くの人々が脚気を患い、参勤交代の武士たちも、江戸に行くと脚気になるので、「江戸患い」と呼ばれたのです。同様なことは大坂でもあったらしいです。

当時の人々の食生活はおかずがほとんどなくせいぜい漬物程度で、その代わり白米を5合も食べていたそうです。今では脚気の原因がビタミンB1不足であることは周知の事実で、現代人は多くのおかずを食べるので、白米が主食でもビタミンB!不足にはなりません。

脚気の原因は明治期になってもわかりませんでした。そして毎年1万人もの死者を出していました。とりわけ惨禍が生じたのは軍隊でした。貧しい地方から徴兵で集められた若者は、白米に大喜びししたものの、次々に脚気で倒れてしまったのです。

欧米の軍艦では脚気の発生が見られないことから、海軍軍医高木兼寛は白米食で航海に出た船と洋食で航海に出た船を比較し、脚気発生率がそれぞれ23.1%と1%であったことから脚気は食事内容によるものと明らかにした。

ところが森ら陸軍軍医は海軍への対抗意識もあり「脚気伝染病説」を奉じて白米食に固執した。その結果、日清戦争では戦死者1417人に対して病死者は11894人。うち脚気による死者は3944人で最多だった。続いて日露戦争では部下が日清戦争の経験を踏まえて麦飯採用を上申したが、森は全く取り上げなかった。この戦争の死者は47000人だったが、脚気による死者は27800人だったと記録されている。
結局陸軍が白米飯をやめ麦3割の麦飯を採用するようになったのは、海軍に遅れること30年であった(1913年)。

森はそうした惨害の責任をとることもなく昇進を続けた。地位の高い医者がまともな医者とは限らないのは今も昔も同じです。いやむしろ高い地位を狙う医者ほど視野の狭い人間なのかもしれない。1908年に臨時脚気調査会が設立されるとその会長に就任し、16年間の在任中「白米原因説」を否定し続けたのです。

1912年鈴木梅太郎が米ぬかからオリザニン(ビタミンB1)を抽出して、その欠乏が脚気の原因であると証明したにもかかわらず、森は「脚気菌」説にしがみつき、東大農学部出身の鈴木を見下し罵倒し続けた(森は東大医学部卒)。

医者としての森の活動は如何でしたか?あまりにも非科学的で頑固でレベルが低く、権威をかさに科学を愚弄する行為です。しかしこのような人間が地位を上り詰めるのです。そうさせている社会を我々は知らずに作っている、もしくは仕方なく抵抗することなく認めているのです。昔も今も。

開業医がコロナ感染した時の経験を手記にしたものを読みました。

この医師は孫の飛沫を思いっきり浴びて感染したといっています。ラゲブリオを手に入れるのに丸一日かかったと、処方に手間がかかることに苦言を呈していました。自分が仕事を休むことになっての苦労話もつらつらと書かれてありました。

ヴィネはこの手記の中で驚いたのはこの医師が「コロナは空気感染しません」と断言していることでした。いまだにこんな認識している医師がいるのかと、信じられませんでした。多くの人がマスクしている社会で飛沫を浴びることなどめったに機会がありません。今の感染の90%以上が空気感染であることは火を見るより明らか。

それより、この医師が孫から飛沫を思いっきり浴びたという、あまりにも無防備な生活していたことにがっかりしました。今の時期、風症状があったらコロナを強く疑って、飛沫を浴びないようにするのは最低限の行為なはずなのに。この人本当に医者なのかと疑いました。

新聞に興味深い記事あがありました。

一般的な風邪ウイルスだったコロナウイルスが変異を遂げたのは今回が初めてではないのです。

1989年にロシア内陸部でロシア風邪という新型の風邪がはやり、翌年には日本にも到来しました。世界で100万人以上が死亡したとされます。今ほど人の交流がなかった130年も昔のことですが、世界中に広がるのにそれほど時間がかからなかったのには、その感染力の強さに驚かされます。
これまではロシア風邪はインフルエンザの一種と考えられていたそうですが、今回の新型コロナウイルスと症状や後遺症や流行の仕方など、類似点が多く、インフルとの特徴が異なるのです。
ロシア風邪は今では普通の風邪コロナの一種になっているそうです。因みにロシア風邪は2年で終息したそうです。つまり2年で弱毒化したか人が免疫を持ったと思われます。

ところで今ほかの風邪コロナ3種も500~800年ほど前にコウモリなどから人にうつって定着したしたようです。そして今の新型コロナはいつ普通の風邪ウイルスになるのかが興味深いところですが、ある専門家チームは10年かかると推測しています。今の子供の症状が軽い状態が続き、ほとんどの子供が感染していけば普通の風邪に近づくとのことです。

10年は長いですねえ。たとえ子供が軽症だとしても、高齢者は合併症で死亡する例が相次いでますからね。また子供でも後遺症が残る人もいるので、気持ちを緩めすぎるのは問題ありです。かといってこれまでのような過剰な学校生活での制限は、子供たちの精神に深い傷を残しますから、これまでとは違った視点でコロナ対策を構築しなければいけないですね。当然その柱は「NHK」であるべきです。

GWの観光地はコロナ前の人出とのこと。やはりこうでなきゃねえ。この2年自粛ばっかりでみんなストレス貯めてましたからねえ。気持ちよく発散できたでしょうか?

テレビで見る限りもうソーシャルを気にしている人なんかいませんね。それが普通の人間のあるべき姿ですよ。

ところが同じころ1年4か月遅れの成人式を開催した自治体のニュースが流れてました。そこでは1メートルの間隔をおいて椅子に座る成人の姿がありました。この新成人たちは会場を出たら絶対1メートル以内に接近しますよね。会場だけソーシャルディスタンス取ったって仕方ないじゃん。役所は形だけ整えればいいという考えです。
そしてアナウンサーは相も変わらず「コロナ対策を十分とって」の枕詞。だったらGWの人出の時には「みんなソーシャルディスタンスなんか気にせず買い物を楽しんでいます」とか言わんのか!?

緊急事態宣言が出されたとき、「マスクしないで歩いてるやつがいる」とか、「公園で遊んでいる親子がいる」などと通報する人がいたとのことです。こういう人たちを自粛警察と呼んでいました。自分は社会貢献している正義の味方のような気分に浸っていたのでしょう。まるで第2次世界大戦の時の特高と同じで、不快な思いをした記憶があります。

しかし自粛疲れなのか、最近はむしろ外出したがりの虫がうずうずして、GW期間中はどこの観光地も人出はコロナ前に戻って来たようです。

と思っていたら、まだ自粛警察が潜んでいました。家庭内に!

ある患者さんが言っていました。
「どこにも遠出できなくてストレスが溜まっています。夫が『電車に乗るな。俺がコロナに感染したらお前のせいだからな』っていうんです」

男は相手が自分の配下にあると思うと、暴君のふるまいをしますよね。人の自由を拘束してそれが正義だと思うのはまさにミニプーチンです。ミニプーチンは珍しくないです。そこら中にいます。みんなプーチンの要素を多かれ少なかれ持っているのですが気づかないだけです。

ライナス・ポーリングはノーベル化学賞と平和賞を受けた20世紀を代表する科学者です。研究は多方面に及び、ダ・ビンチのような多彩な人だったと思われます。

さてその彼は大量のビタミンCや他の栄養素を摂取する健康法を提唱し、「ビタミンCと風邪」を著し、「ビタミンCを摂取すれば風邪が治る」と広げました。さらにはがんや放射線障害にも効くと発表。当然大反響でしたが、多くの反論も出ました。ポーリングもめげずに何度も反論。日本にも80年代にビタミンCブームを巻き起こしました。さらには外圧を受け、日本ではビタミンのサプリが市場に広まりました。
最終的にビタミンCが風邪予防にならないしがんの予防にもならないという結論に落ち着いたのは、2013年になってからでした。ポーリング自身はアメリカ人の必要摂取量の300倍ものビタミンCをとって、最終的には前立腺がんで93歳で亡くなっています。

日本のライナス・ポーリングと言われているのが、三石巌氏です。分子栄養学の権威で、1980年代に栄養の乱れから病気になることを強調された活動をしてきました。

ヴィネは1990年ころにこの二人の活動を知りました。しかしその後ゲルソンのことを知って、彼の方がこの二人よりずっと以前、1920年台にはすでにがんの栄養食事療法に気づいていたことを知りました。

話が随分それましたが、ヴィネが言いたいのは「たとえノーベル賞受賞者といっても、言っていることは結構間違っている」です。最近も同じようなことやった人がいましたが・・・

それと、風邪にならない方法はビタミンCの大量摂取ではなく、ポーリングよりずっと才能面で劣るヴィネが提唱する「NHK」ですよ。